自然な姿勢
例えば、歯が痛くて悩んでいる人がいるとします。
歯の痛みは、痛み止めを飲めば治まりますが、痛みの原因は痛み止めを飲んでも解消されません。
治療をし、場合によっては神経を抜き、最悪の場合は抜歯せざるを得ないかもしれません。
羊は、歯が長年の使用によって磨耗すると、草が食(は)めなくなり、餓死して行くと言います。
人間も歯がダメになると食事ができなくなるわけですが、義歯のお陰で食事はすることができます。
しかし、例えば入れ歯は、自分自身にも、そして周囲にも、老いを感じさせます。インプラントは、保険が利かずに高価であり、骨に人工物を固定化するという違和感もあります。
いずれにしろ、自分の永久歯に及ばないのは確かです。
年齢を重ね、歯がだんだんと疲弊して行き、痛んだり義歯になったりするのは、往々にしてあることです。現代人の寿命は、永久歯の耐用年数を越えているのかもしれません。とすれば、入れ歯になったりするのは仕方のないことですが、 「老人ぽい」として嫌がる人は多そうです。
若くありたい、それは多くの人が望んでいることかもしれません。
若く見られたいし、自分でも自分のことを若いと思っていたい。
年齢を経た時に、鏡の前で愕然とした経験をお持ちの方は、余計そう考えるのかもしれません。
理想と現実のギャップ、それが悩みを生むということは、以前にもお伝えしました。自然な老いを認められないことは、やはり悩みを生みます。
しかし、どんなに時間とお金をかけても、老いを避けられる人はいません。
しかし、「老い」というのは、そんなに避けなければならないことでしょうか?
いまの自分は、誕生してから今日まで、一日一日を積み重ねて来た結果です。
70歳になったとして、365日×70年=25,550日の経験が積み重なっています。
与えて頂いた毎日を精一杯生きてきた人は、25,550日以上の経験を積んでいるかもしれません。一方で、日々を目一杯生きて来なかった人は、70歳になっても、365日×20年=7300日くらいしか積み重なっていないかもしれません。
もしかしたらこういう人が、若くありたいと願うのでしょうか。もっと経験を積まないと、と無意識の内に望んでしまうのでしょうか。
毎日を一生懸命に生きている人は、「若くありたい」とか、望んでいるヒマさえない可能性があります。70歳の誕生日の朝を迎えたとして、70歳の最初の日はもちろん初めての経験ですし、70歳の2日目も初めての経験です。
いくら年齢を重ねても、迎える日はすべて初体験の新しい一日になるわけで、ボヤボヤしているヒマはありません。
80代後半を迎えて、いまだに現役を通している作家がいます。
死ぬまで現役を通したいと思っているその方は、作家としての最後の仕事として、亡くなる瞬間を描写することを望んでいます。それができるかどうかはわかりません。恐らくは難しいでしょう。ただ、未経験のことを体験し、それから呼び起こされたことを描写する仕事は、その方のライフワークです。例え死の床にあっても、一瞬たりとも、おろそかにするわけには行かないのです。
 

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